ぼくとアールと彼女のさよなら
原題:Me and Earl and the Dying Girl
製作国:アメリカ
製作年:2016年
日本では劇場未公開:2016年にDVDスルー
監督:アルフォンソ・ゴメス=レホン

【個人的評価】
 星 9/10 ★★★★★★★★★
 
あらすじ

学校で周りとなれ合わずにただ過ごしていた高校生のグレッグは、なぜか気が合うアールと共に名作映画のパロディー映像を作る冴えない日々を送っていた。ある日、幼馴染みだが疎遠になっていた女の子のレイチェルが白血病になり、グレッグの母親は彼にレイチェルの話し相手になるよう強制する。

レイチェル、白血病で死ぬってよ

『ぼくとアールと彼女のさよなら』という映画は、あの名作『桐島、部活やめるってよ』を連想させる一作です。別に群像劇ではないし、時間軸や視点を頻繁に変えるような構成でもないのですが、不安定なあの「青春」をどこか俯瞰的に描く姿勢が似ています。


なにより主人公のグレッグという高校生の趣味が「映画製作」という点が『桐島、部活やめるってよ』と関連させて語りたくなる大きな理由のひとつです。グレッグは、仲間のアールとともに過去の名作といわれる映画の数々をパロディにした映像を作るだけの自堕落な毎日を過ごしています。別に部活とかではなく、完全に個人趣味であり、映画の内容はとにかく下らないレベルなのですが、決してテキトーに作っているわけではなく、彼なりの作り手としての意思があることが窺えます。ちなみに、元ネタの映画を知っていると笑えますし、もっと見たくなるほどキュートなので、映画通はこれだけで楽しいんじゃないでしょうか。

そんなグレッグは、学校では周囲に馴染まず、スクールカーストにおけるどのグループにも属さないで孤立しています。アールという黒人の同級生と一緒にいることが多いですが、友達と呼ぶのが嫌だという理由で「協力者」と呼ぶという徹底ぶり。完全にこじらせています。

そして、彼のもとに昔は幼なじみで交流があったが今は赤の他人のレイチェルという同級生が白血病になったという情報が飛び込んできたことで、生活に変化が訪れます。

このレイチェルというキャラ、『桐島、部活やめるってよ』でいうところの、騒動の発端となる「桐島」と主人公が好意を向ける「東原かすみ」を合体させたような立ち位置です。ただし、重要なのは主人公とは決して恋愛関係にはならないというところ。しかも、主人公は「友達」という関係性を毛嫌いしてるので、レイチェルは友達ですらないわけです。じゃあ、なんだという感じですが、そういうアバウトさも青春あるあるでしょう。

レイチェルが白血病を発症することから物語は始まりますが、本作はいわゆる難病モノの感動号泣を誘う映画ではありません。主人公のナレーションで章仕立てで進行する本作は、カメラワーク、カット、セリフ回しといいとにかく軽い。全体を通してシリアスにはなりません。「病気? 恋愛? なにそれ」みたいに突き放してきます。でもなぜか優しくしみ込んでくる、そんな青春映画です。

映画批評サイトでは高い評価を受けている本作。日本では劇場公開されずDVDスルーのようで残念です。


映画好きな人orとくに青春映画が好きな人にはおすすめなのはもちろん、世間から孤独を感じている全ての人に強く見てほしいと思う一作です。





↓ここからネタバレが含まれます↓ 




マイノリティであることは悪いことじゃない

周囲に混ざらず、どこか冷笑的に世の中を批評している主人公グレッグは、言ってみれば独りで生意気に粋がっているだけのいわゆる「ボッチ」です。こういう人は同世代からは変な奴と馬鹿にされるでしょうし、大人からは「思春期」の一言で片づけられるでしょう。

しかし、本作は、グレッグのような「人とは違う視点で世間を俯瞰する姿勢」に対する確かな価値を描いた作品だと思います。本作では映画全体をとおして「俯瞰する」という雰囲気を終始漂わせています。

それがよくわかるのは病気に対しての描き方です。

普通のありがちな展開であれば、「弱きもの」を思いやり、「悲しきこと」に涙する理想の姿を描くのが当然でしょう。

ところが、本作ではその理想の嘘を突きつけるように難病に対する現実的な世間の姿がただただ描かれます

それまで付き合いが途絶えても気にしていなかったくせに、命に関わる病気にかかったと知った瞬間、急に会話をしてあげてと迫るグレッグの親。レイチェルのために映画を作ってあげてと要求するわりには、自分はプロムのことで頭がいっぱいな女友達。テンプレどおりの言葉でお見舞いメッセージを語る同級生たち。

そんな難病に対する表面だけの「お見舞い申し上げます」ムードに対して、ただ唯一、グレッグだけがのっかることをしません。

そもそも原題が結構ひどい。『Me and Earl and the Dying Girl(僕とアールと死にかけの少女)』です。普通だったら、もうちょっとオブラートに包めばいいのにと思うところ(この点、邦題の「さよなら」はオブラートに包みすぎて本作の本質が損なわれてると思います)。

グレッグの行動は確かに世間でいうところの「空気が読めていない」感そのもの。でも、レイチェルの前で死ぬ人を演じるという絶対に周囲から白い目で見られるであろうことをやったことで、レイチェルから信頼されます。そんなグレッグも、女同級生にプロムに誘われたり、アールと喧嘩したりして、少しずつ「周囲に混ざらない」という自分のスタンスが崩れかけることに。そして、人生の岐路に立たされたグレッグがとった行動は…テンプレどおりの言葉で作られたお見舞いメッセージ動画をボツにして、最終的に自分で新たなに動画を作り直し、プロムを放り出して、病院のレイチェルに見せることでした。

グレッグのような人を世間は馬鹿にすることは多いですが、それはつまりマイノリティを馬鹿にしているのと変わりありません。

グレッグだってそんな世間を無視しつつも、自分はこのままでいいのかと自信が持てていなかったと思います。

でも周囲に混ざらないグレッグは、同じく病気ゆえに孤立を深めるレイチェルの一番寄り添った存在になれたわけで、それはつまりグレッグの「周囲に混ざらない」というスタンスが誰かに認められた瞬間でもあります。きっとアールもどこかでグレッグの生き方に救われていたんだと思います。
Me and Earl and the Dying Girl
終盤、パロディじゃない初めてのオリジナルな作品を創り上げたグレッグは、大学進学への自信を持つことができ、次への階段を歩んでいました。

世間から孤独を感じている全ての人の背中を優しく押す、素晴らしい映画でした。